凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

足利義満による中国との国交回復

 足利義満室町幕府の3代将軍となっていた1368年、中国大陸で政局の大変動がありました。元帝が北に追われ、朱元璋(しゅげんしょう)が今の南京で即位し、太祖洪武帝となって王朝を開いたのです。

 洪武帝はすぐに高麗や日本に使者を送り、朝貢を要請しました。日本にとっては元寇以来途絶えていた中国からの使者でしたが、その国書は大宰府懐良(かねなが)親王に届けられました。当時の日本は南北朝が分裂しており、九州は懐良親王が属する南朝勢力の支配下にありました。日本の事情を知らない使者は、親王が日本の代表であると思い込んでおり、中国側の記録にも「国王良懐」とあります。

 それを知ってあわてた義満は、ただちに中国に使者を送りましたが、二度までも入国を拒否されてしまいます。困ったことになりましたが、そうこうするうちに洪武帝が死に、日本でも南北朝が合一されたために情況は変わりました。また、西国の有力守護大名大内義弘を倒したことで、いよいよ義満も明との国交に前向きになりました。博多商人から対明貿易が莫大な利益を生むことを聞かされていたからです。

 1401年に義満が明帝に送った国書は、「日本准三宮道義国書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」で始まり、好(よしみ)を通じたいと願い出ました。翌年に使者が持ち帰った明帝からの返書には「日本国王源道義」とあり、中国の暦を奉ずると述べられていました。それは、明帝の冊封体制に入ったことを意味するものでした。

 1403年には永楽帝の即位を祝う使者を送り、そのときの国書は「日本国王臣源表す」という書き出しでした。これを喜んだ永楽帝は、義満に明の冠服と亀紐(きちゅう)の金印を贈り、また100通の勘合符を発行して、10年に1度の朝貢を認めました。義満は国内の支配権確立のために膨大な資金力を要していたため、名分を捨て実利をとったということでしょうか。この屈辱的な貿易のあり方はやはり問題視され、次の4代将軍・義持によって停止されています。

 

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