凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

新井白石の『折たく柴の木』

 『折たく柴の木』は、日本最初といわれる自叙伝で、著者は江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者である新井白石です。彼がこの自伝を書き始めたのは。政治の中枢から退いた直後の59歳のときで、68歳で亡くなる数年前まで書き続けたとされます。執筆の動機は「自分の祖父の時代のことさえはっきりとした記録がない。まして自分の時代についても後世には不明なことが多くなるだろう、せめて自分の生きている間に記録として残しておきたい」というものでした(序文から)。学者としての義務感によるものだったのでしょうか。

 『折たく柴の木』は上・中・下の3巻からなり、平易な和漢混合文で記されています。上巻の内容は自身の生い立ちや祖父母、両親に関する記述が中心で、中・下巻は将軍家ならびに幕府関係の業績、記録などが中心となっています。ただ「外様の人の見るべきものにもあらねば」との記述もあることから、あくまで非公開が前提の自叙伝だったようです。書名は、後鳥羽天皇の御製歌「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」(新古今和歌集)に由来しています。

 寒中、眠気をもよおしてくると水をかぶって読書を続けたというエピソードもある秀才白石は、貧しい武士の子でしたが、幼いころから学者をめざしていました。6歳のときに、教養のある人から「この子には文才がある」と誉められたものの、周囲の老人たちから「利根(才能)、気根(根性)、黄金(資金)の三ごんがなければ学者として大成できない」と言われ不安になったという話も載っています。

 また、1703年(元禄16年)、江戸と東海地方を襲った大地震の際には、出仕先の甲府江戸屋敷に駆けつけますが、「家たおれなば火こそ出べけれ。燈うちけすべきものを」と、「ぐらっときたらまず火を消せ」という今日にも通用する地震標語を警告しています。さらには1707年(宝永4年)に起きた富士山大噴火のときの記述もあります。降灰による大被害のなか、さまざまな怪現象の風聞が流れたようですが、白石は「まのあたり見しにもあらぬ事共は、こゝにはしるさず」(自分の目で確かめていないことは、ここには書かない)と慎重な態度を示しています。なお、今ある宝永山はこの時にできた山です。

 白石は甲府藩主・徳川綱豊に仕え、綱豊が6代将軍・家宣となった後は将軍家の家庭教師兼政治指南役として勤め、家宣が亡くなった後も7代・家継に仕えました。いわば体制側の人間だったにもかかわらず進歩的な合理主義者であり、この本のなかでも、林信篤が「正徳」の年号の正の字が不祥だから改元したほうがいいと提案したことに反対し「年号の文字には罪はない」と反論したり、幕府の財政改善のため朝鮮特使の待遇を簡略化、また、参勤交代の人数や将軍家への献上品を減らさせるなどしています。几帳面な性格で、学識も当時としては抜群だったといわれます。

 

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