凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

伊能忠敬の超絶パワー

 江戸時代後期に、実測による初の日本地図を作成したことで有名な伊能忠敬は、もとは下総(千葉県北部)生まれの商人でした。養子に入った酒造業の商家を繁盛させて財を成し、50歳になると隠居。商売は息子に任せて、勉学のために江戸に出ました。19歳年下の幕府天文方の学者・高橋至時の弟子になり、そこから天体観測や測量、暦法を熱心に学んだといいます。今でいえば、定年退職後のビジネスマンが大学院で学び始めたようなものでしょうか。

 その忠敬が全国の測量に出向くきっかけになったのが、ロシアによる蝦夷地(北海道)への圧迫でした。師匠の至時は北方の緊張を憂慮し、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立てて幕府に願い出ました。測量による地図作成のかたわら、それまで明確でなかった子午線一度の距離も求めようという狙いもあったといわれます。そこで、この事業の担当としてあてられたのが忠敬でした。高齢であるのが懸念されましたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材とされたのです。

 当初は、幕府への提案はすんなりとは受け入れられず、忠敬も信用はされていなかったようです。しかし、蝦夷地の測量と地図作成を予想外にうまく成功させたことから、その後の計画も追加され、実際に彼が全国を測量して歩いた期間は、56歳から17年間にも及びます。驚くのは、その間に彼が投じた私財が1万両以上、今の金額で数億円にもなる大金であることです。途中から幕府の援助金が出るようになったとはいえ、毎年数千万円のポケットマネーを出し続けていたことになりますから、こちらはリタイア後のビジネスマンがとうてい真似できることではありません。

 忠敬が最終的に測量のために歩いた距離の合計は、約4万3,000km。これは地球を1周以上したことになる途方もない距離です。また、実際に測量を行った日数が約3,700日だそうですから、1日平均11.6kmのペースで歩き続けたことになります。最初に蝦夷地に向かったときは、寒くなる前に終えるため急ぎに急ぎ、1日40kmも歩いたといいます。測量のための重い機材を運びながら、しかも当時の道路事情などを考慮すれば、まことに驚異的なペースというよりほかありません。

 夜には、測量結果のデータを計算し、さらに宿舎の庭に出て天文観測までしたといいますから、彼のスケジュールは超人的なハードさでした。しかも、最初に蝦夷地に赴いたときは総勢5名、やがて幕府から援助金が出るようになり、西日本をまわるころには幕府の直轄事業とされ、人数は20人ほどに増えましたが、それでも、オーバーワークによる部下たちの死亡、すなわち過労死が絶えなかったといいます。

 忠敬は、日記のなかで、自分より若い人が亡くなっていくことを幾度も嘆いていますが、本人の年齢不相応の超絶パワーには恐れ入るばかりです。何か特別な健康法でもあったのでしょうか。72歳になるまで全国測量を続け、その後は地図の作成に没頭、残念ながら地図の完成をみることなく73歳で亡くなりました。しかしながら、50歳から始まった忠敬の第二の人生は、日本史上もっとも輝いていたといっても過言ではないでしょう。とまれ、やはり何をおいても健康第一でありますね。私も随分あやかりたく思います。

 

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伊能忠敬: 日本を測量した男 (河出文庫)

伊能忠敬: 日本を測量した男 (河出文庫)

  • 作者:童門 冬二
  • 発売日: 2014/02/06
  • メディア: 文庫