凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

名君・徳川家宣

 48歳で江戸幕府6代将軍となった徳川家宣は、綱吉が死んでわずか1週間後に「生類憐みの令」を廃止しました。これによって、全国でおよそ1万人の人が赦免されました。綱吉は、死の直前、家宣に「生類憐みの令は100年後も続けてくれ」と言い残していました。しかし家宣は、綱吉の柩に向かって「私は、生類憐みの令を100年守ります。でも、天下万民は免除してやってください」と言ったといいます。

 家宣は、役人に賄賂を贈ることを固く禁じました。将軍になる前、綱吉の養子として江戸城西の丸に入ったとき、下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持ってきたものの、家宣はこれらを一切受け取らなかったといいます。さらに、庶民に将軍行列の参観を認めたり、政治批判の落書さえも自戒にしたりしました。また、側近の新井白石から、家康・秀忠・家光の事跡などを熱心に学んだといいます。そして、家宣は慈悲深くもあり、「極悪非道の罪人でも、何か許す点がないか捜せ。そして罪を軽くしてやるのが本当の政治なのだ」と語ったといわれます。

 しかし、もともと体が弱かったため、わずか3年9ヶ月で病に倒れます。当時流行っていた感冒(インフルエンザ)に罹ったとみられています。そこで、次期将軍を決定しておくのが急務となりました。家宣には4歳の息子・鍋松(家継)がいました。しかし、家宣は鍋松が将軍になることを否定しました。新井白石を枕元に呼び、「次期将軍を尾張殿(徳川吉通)に譲ろうと思う」と語ったといいます。

 これを聞いた白石は驚愕しました。尾張家から将軍を招くとなると自分の地位もどうなるか分からない、そう思った白石は必死になって家宣を説得、「吉通公を将軍に迎えては、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いとなり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねませぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはありません」と、強く鍋松を推しました。しかし、それに対して家宣は言いました。

「鍋松は幼く、古来、幼君のときに天下が平穏であった試しは少ない。また天下のことは私すべきものではない。家康公が御三家を立てられたのも、こういうときのためだ」

 しかし、結局は白石ら譜代の者の強硬な後押しによって、7代将軍には鍋松が就くことになります。家宣は、臨終の間際、枕元で泣く側近たちに向かってこう語ったといいます。

「泣くな、馬鹿者。人間が死ぬのは当たり前ではないか」

 それが最期の言葉でした。享年51歳。

 

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