凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

江戸城開城後、大奥の女性たちは・・・

 1868年、15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還され、その2日後には、大奥の女性たちに里帰りが命じられました。江戸城の大奥には、多いときで1000人を超える女性たちが暮らしていましたが、主がいなくなれば、大奥の女性たちは用なしとなります。そのため、彼女たちは大奥を出て実家へ帰りました。嫁に行ったり、そのまま実家のやっかいになったりして、ふつうの女性に戻ったのです。

 ところが、そのまま江戸に残った数人の女性がいました。13代家定の未亡人の天璋院、14代家茂の未亡人の静寛院宮、それに慶喜夫人の美賀子です。そしてそれぞれのお付きの女中たちが、江戸城開城後も実家には帰りませんでした。彼女たちは田安家に移り、田安家達の教育に当たりました。

 田安家は、一橋家、清水家とともに「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれ、御三家と同じく、将軍の後継者がいないときに将軍家を継ぐという家柄でした。彼女たちが田安家に移ったのには、いつまた徳川幕府が復活するかもしれないため、世継ぎを教育しておこうという狙いもあったようです。

 ところで、慶喜夫人の美賀子の晩年は寂しいものでした。夫の慶喜が静岡に移り住んでも、彼女は東京に残り、1894年(明治27年)に病死しました。慶喜との間に一女をもうけましたがすぐに亡くし、その後は子供ができませんでした。慶喜には、男10人、女11人の子供がいましたが、みな静岡生まれで側室の子でした。

 

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男と女の愛ことば

韓国代表に反論したムルトポ将軍

 昭和48年4月のこと、マニラで開かれたASEAN諸国を中心とした安全保障の国際会議での席上、韓国代表がこのように演説しました。

日本帝国主義が30数年間にわたり韓国を侵略したために、韓国は防衛体制が確立できなかった。その責任は日本にある」

 これに対し、日本は何も反論できませんでした。すると、インドネシアムルトポ将軍が席から立ち上がります。ムルトポ将軍は、自らインドネシア独立戦争を戦ってきた人物です。将軍は、韓国は日本の庇護のもとに日本人として生きてきたくせに、日本が戦争に負けた途端、戦勝国民であるかのようにふるまい、独立戦争を戦ってきたと嘘を言う、その態度に我慢ならず、次のように発言しました。

朝鮮人は自ら戦わなかったくせに、責任だけ日本に押しつけるとは何事か。もしアジアに日本という国がなかったらと仮定してみよ。1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に進出し、朝鮮を狙っていた。朝鮮が戦わないから、日本が戦ったのだ。これが日露戦争だ。

 朝鮮は、日本が負けると思って、裏でロシアと繋がっていたではないか。もし日本が戦わなかったら、朝鮮は間違いなくロシア領になっていた。ロシア領になっていたのは朝鮮だけではない。中国も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。遅れて登場したアメリカは、どうやって中国大陸に食い込むか企んでいた。

 そもそもアジア混迷の遠因は中国にある。中国はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降参してしまった。その時、中国はなぜ徹底して戦わなかったのか。イギリス・フランスを大陸に引き込んで、蒋介石のように戦えば勝てたかもしれない。”中華”と誇る中国がふがいなく負けたから、日本が大東亜戦争を戦わざるを得なくなったのではないか。その責任は中国にある。そもそもアジアで戦ったのは、日本だけではないか。もし日本という国がなかったら、アジアは半永久的に欧米勢力の植民地として支配されていたのではないか。

 戦後、アジア諸国は日本から、経済、技術、資金でいかに多くの支援を受けてきたのか」

 真実を言われた韓国代表は、何も言えませんでした。

 

【衝撃】国際会議で日本を非難した韓国代表に対し、インドネシア将軍が放った一言が…!【日出づる国TV】【日出づる国ちゃんねる】 - YouTube

 

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慎重に行われた「日韓併合」

 1909年の伊藤博文の暗殺を受けて、日本の対韓政策は大幅に変更されました。友好的にやろうと思っていたのを、テロでお返しされたら態度が変わるのも当然でしょう。また、韓国側からも「日韓併合」の提案が起きました。しかもそれは韓国政府からだけではなく、韓国一心会という自称100万人の会員を擁する民間団体が「韓日合邦を要求する声明書」を出したりしました。

 しかし日本はまだ併合には慎重で、朝鮮半島を領土とすることに対して列国や清国がどう思うかを気にしました。そこで日本は関係国に併合の件を打診したところ、米英をはじめ一国も反対しませんでした。アメリカのルーズベルト大統領などは「朝鮮半島は日本のものである」と公言しました。彼らが呈示した条件は「すでに韓国と結んだ通商条約を廃止しないでくれ」ということだけでした。

 列国は日本に対するのと同様に、韓国とも不平等条約を結んでいたので、極めて低い関税で韓国に商品を輸出しており、それを併合後も続けたいという条件だったのです。また米英の新聞も、東アジアの安定のために日韓併合を支持するという姿勢を示しました。これを見て、日本ははじめて日韓併合条約を結ぶことにしたのです。

 日韓併合は、このような慎重な手続を経て実現されました。そして、併合後も朝鮮王族の地位は保全され、皇室に準ずるものとされ、朝鮮の貴族も日本の華族と同じ扱いとされました。さらに、新たに戸籍制度を導入し、それまで姓を持つことを許されていなかった賤民らにも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させました。

 結局、日本の朝鮮経営は圧倒的な赤字でした。鉄道や道路、港湾などの社会的インフラが皆無の状況だったため、たいへんな出費を強いられました。義務教育もなく、朝鮮総督府は学校建設を最大課題としてハングルによる義務教育の普及に尽力しました。併合直前には100校程度しかなかった小学校の数は、1943年には4271校にまで増加していました。

 

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義和団事件で信頼を得た日本

 日清戦争後、清国が西洋諸国に日本への圧力を依頼したことが、かえって諸外国から領土を食い荒らされる結果となり、清国内で白人排斥の感情が高まりました。その旗頭となった宗教集団の「義和団」が蜂起、各地でキリスト教の教会が焼かれたり、西洋人が殺されたりしました。ついには義和団は北京を制圧し、公使館区域を包囲、さらに天津の租界も包囲し、多数の外国居留民が閉じ込められました(義和団事件)。

 清国政府はこの動きを傍観し、それどころか清国皇帝はこれをきっかけに「諸外国と戦う」という詔勅を出したのです。欧米列国は驚愕し、日本による救援を望みましたが、日本政府は自国の判断のみで出兵することを避け、各国の意見を代表するイギリスの正式な申し入れを受けて、はじめて出兵を承諾しました。日本軍は欧米との連合軍の先頭に立ち、天津・北京を落城させました。各国軍が略奪行為を繰り返すなか、日本軍のみ規律正しくふるまい、任務終了後ただちに帰国しました。

 その後、日英同盟に至ったのは、義和団事件で日本が示した模範的な行動の影響が大きかったといわれます。アジアの小さな有色人種国家にすぎないと思われていた日本が、規律正しく勇敢に行動したことが彼らの印象を一変させ「同盟相手として信頼できる国」との評価をもたらしたのです。この同盟によりロシアのアジア進出が牽制され、日露戦争では日本に有利な役割をはたしました。

 

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一般常識のまとめ

一般常識の問題集

大塩平八郎の乱

 大塩平八郎は大坂の天満与力の家に生まれました。少年のころから読書を好み、兵学を究め、功名心に燃えていました。文政3年(1820年)から天保元年(1830年)までの10年間、天満与力として活躍、汚職を暴くなど、その公明正大な仕事振りは、大坂市民の信望を集めました。

 その後、養子の格之助に職を譲り、私塾・洗心洞において門弟の指導にあたり、また著述にも力を入れていました。しかし、天宝7年(1836年)4月、新しい大坂町奉行として跡部山城守良弼が赴任してくると、折からの飢饉対策について、平八郎との間に意見衝突が起こりました。

 幕府が江戸の米商を大坂に派遣して米の買入れを行わせようとすると、跡部は、幕府のご機嫌取りのため、ひそかに江戸送りの米買入れを援助しました。平八郎は養子の格之助を通じて、江戸へ米を回すよりも大坂の窮民を救う方が先だと、何度も意見を伝えましたが、跡部は無視しました。翌年には米価は狂騰し、疫病が流行り、大坂市内では連日80~100人の死者を出すほどになりました。

 平八郎は鴻池・三井らの豪商から6万両を借入れて窮民を救済しようとしましたが、跡部は「隠居の身でそのようなことをするのは怪しからぬ。強いてやるなら強訴の罪に処す」と脅かしてきました。平八郎は仕方なく自分の蔵書5万書を売却し、その代金1000余両を窮民1万戸に施しました。跡部はそれすらも売名行為だと見做していました。

 怒りの収まらない平八郎は、家財を売却、家族を離縁し、大砲その他の武器弾薬を調達、2月19日、跡部が新任の西町奉行掘伊賀守と市内巡見を行う時をねらって兵を挙げようと企てました。ところが、同志の1人が寝返って跡部に密告したため、予定を早めて行動を起こさなくてはならなくなり、19日早朝、同志300人とともに大砲を放って行動を開始しました。「救民」の旗を掲げながら、豪商が集まる船場を焼き払い、奪った金や穀物を路上にまき散らして窮民らに与えました。参加者も次第に増えて一時は600人を超えました。

 跡部と掘の両奉行は狼狽しながら鎮圧にあたりましたが、2人とも馬から振り落とされるという醜態を演じました。大塩軍は始めのうちは大いに気勢が上がりましたが、大坂城から兵士が大挙出動してくると四散五裂し、同志は80人に減ってしまいました。

 平八郎はやむなく同志に解散を命じ、自らも行方をくらましました。幕府の役人らは必死になって平八郎の行方を捜索、ついに3月26日、大坂市内に潜伏しているところを襲いましたが、平八郎は格之助とともに自殺しました。

 この事件そのものは、わずか半日の戦闘に過ぎませんでしたが、幕府の威信は大きく損なわれました。とくに跡部以下幕府の役人がみせた醜態と脆さは大坂市民の失笑を買い、「こんな弱い武士見たことない」とあざけられたといいます。

 

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日本史年表

女性の地位と結婚の形

 結婚の形は、時代とともに移り変わり、それとともに女性の地位も大きく変わってきました。奈良時代から平安時代前期にかけては「妻問い婚」、平安時代中期からは「婿取り婚」、鎌倉時代からは「嫁取り婚」となりました。

 妻問い婚とは、「妻問う」、つまり夜になって男性が女性の家を訪問し、そこに泊まり、翌朝の暗いうちに帰るという結婚の形です。こういう形を取ったのは、大切な労働力である女性を実家から出さないという考えがあったためだとされます。男性が通うのをやめればそれが結婚の終わりであり、逆に女性が門を閉ざして男性を拒むことも、また他の男性を通わせることもできたようです。

 平安時代後半には、妻問い婚の発展形といいますか、それを正式なものとして認めた上での婿取り婚に変わってきました。これは、朝になると帰ってしまう男を昼間も居続けさせ、労働力として使おうという発想からでした。それでもまだ、『源氏物語』の光源氏が正妻・(あおい)の上のもとにたまにしか通わなかったように、同居しない場合が多かったようです。

 鎌倉時代になると、領地を守るために土着する武士のもとへ女性が嫁ぐ嫁入り婚が増えますが、源頼朝の妻・北条政子のように結婚後も姓が変わらず、財産も自分で持つなど、女性の地位はまだ高かったのです。しかしながら、家に嫁すという観念が基調とされたため、自由な恋愛は否定され、婚礼当夜に初めて新夫婦が相まみえるということも珍しくはなかったようです。また、一般庶民の圧倒的大多数は、依然として婿取り婚のままでした。

 鎌倉時代後半になり、財産が分割されて減るのを避けるために単独相続が行われるようになると、女性への財産分与はなくなり、嫁入りした先での発言権も弱まっていきます。やがて武士の妻たちは「奥」に閉じ込められ、「女は子を産むための道具」とか「腹は借り物」などといわれるようになったのです。この武士社会の婚姻方式が、やがて庶民の間にも広がっていき、今日の一般的な形となりました。

 

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古典に親しむ

僻地だった江戸

 太田道灌といえば江戸城を築いた人物として知られますが、江戸城が築かれたのは、江戸幕府が開かれる146年前の1457年、室町時代のことです。1590年に豊臣秀吉から関八州をあたえられた徳川家康が入城、その13年後に幕府を開きますが、それまでの江戸城は、関東を支配していた北条氏の単なる支城でした。

 昔からずっと、関東の中心は鎌倉でした。万葉集にも鎌倉を詠んだ歌はありますが、江戸を詠んだ歌はありません。平安時代末期に、秩父氏の系統の江戸四郎重継が、江戸城のあたりに館を建てて暮らしていたことから、ようやく江戸という地名が生まれたといいます。

 江戸がいかに無視されていたかは、当時の東海道が江戸どころか、武蔵国さえ通っていなかったことでも分かります。東海道は、常陸国茨城県)の鹿島神宮を起点に、下総、上総、安房から海を渡って三崎(神奈川県)へ出て、鎌倉へと続いていました。江戸は、江戸氏という一族がわずかに住む、まったくの僻地だったのです。

 家康が入城したころの江戸は、みすぼらしい城のある小さな漁村にすぎませんでした。当時の海岸線は、現在の田町、日比谷、霞ヶ関、新橋あたりにあり、日比谷周辺は入り江が深く、漁師の家が集まっていました。いまの浅草あたりでは、海苔がよくとれていたといいます。

 それが、江戸に幕府が開かれると、天下普請による江戸城の大増築が行なわれ、いまの駿河台にあった神田山を崩して、海岸が埋め立てられました。また諸大名から石材を運送させ、天守の石垣などを築いていきました。一連の天下普請が完了したのは1660年、以後200年以上にわたり江戸城は幕府の中枢として機能しました。

 

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古典に親しむ