凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

これぞ、武士道!

 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義という7つの「徳」で成り立つとされる、日本の武士道。武人にとっては、名を惜しみ、忠誠を尊び、戦いの場にあっていかに美しくあることができるか、あるいは美しく死ねるかというのが最大のテーマだったとされます。

 そうした意識は、当然に敵に対する配慮にもおよび、敵を辱めるなどという行為はタブーとされました。敵であってもきちんと礼を尽くす、不必要な強さを誇示するのではない、残酷な態度はもってのほか、倒した相手にもきちんと敬意を払い共感する、それが武士のたしなみだったのです。そして、この武士道精神は、明治時代になっても脈々と生き続けていました。

 たとえば日清戦争において、北洋艦隊の敵将・丁汝昌(ていじょしょう)が戦闘に敗れて自決してしまったときのこと。彼の部下たちはその遺骸を母国へ送るため、ジャンク(中国の帆船)に乗せて運ぼうとしました。これを見た日本軍は、「敗れたとはいえ、海軍提督がジャンクのようなみすぼらしい船で帰国するのはよくない。ちゃんと軍艦に乗せて帰しなさい」と言って、軍艦を使わせました。敗者に対してもきちんと礼を尽くしたのです。

 日露戦争で活躍した乃木希典大将もそうした人物だったといいます。乃木大将は第三軍司令官としてロシアの旅順要塞の攻撃を指揮しました。この戦いは、双方に多数の戦死者を出し、戦史に残る大激戦となりました。乃木大将自身も二人の息子を失い、戦車も航空機もない時代に、機関砲を配備した要塞への攻撃は困難を極めました。しかし、最後には要塞は陥落。ステッセル将軍が降伏勧告を受け容れて、戦闘は終結しました。

 乃木大将とステッセル将軍の会見の場では、双方が互いの勇気と健闘を称え合いました。そして、各国の軍記者が会見の写真を撮りたいと申し出たとき、乃木大将はこう言いました。「敵の将軍にとって、後々に恥が残るような写真を撮らせることは武士道に反する。会見後に、我々が同列に並んだところを1枚だけ許そう」

 そうして、ステッセル将軍以下にきちんと剣を持たせて、いっしょに写真に収まったのです。ステッセルは会見後、幕僚に対し、「自分がこの半生のうちに会った人のなかで、将軍乃木ほど感激をあたえられた人はいない」と語ったといわれます。そして、こうした乃木大将のふるまいは、旅順要塞を攻略した武功と共に世界的に報道され賞賛されました。

 

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マッカーサーの証言

 マッカーサーアメリカ合衆国の軍人で、太平洋戦争で連合国軍を指揮し、勝利後は日本占領を統括し民主化を主導した人物です。朝鮮戦争では国連軍総司令官となりましたが、途中でトルーマン大統領と対立し、退任させられます。そのマッカーサーが、朝鮮戦争後の1951年、自分たちの占領政策東京裁判の誤りを認め、アメリカの上院で次のように議会証言しました。

 
 ―― まず、日本は8000万に近い厖大な人口をかかえ、それが4つの島の中にひしめいていることを理解していただかなくてはならない。その半数近くが農業人口で、あとの半数が工業生産に従事していた。

 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接してきた何れにも劣らぬ優秀なものだった。歴史上どの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときの方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを見出していた。

 これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何がしか働くための材料が必要だということを意味する。彼らは工場を建設し、労働力を有していた。しかし彼らは、手を加えるべき原料を得ることができなかった。

 日本には、絹産業以外には固有の産物はほとんど何も無い。彼らには綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。そのほか実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していた。

 もしこれらの原料を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていた。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が”安全保障”の必要に迫られてのことだったのだ。――

 

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さげまん?楊貴妃

 中国、唐の第6代皇帝といえば、玄宗(在位712~756年)。この人は、則天武后の後に権勢をふるった中宗の皇后の(い))一派をクーデタで一掃し、自分の父を即位させて自らは皇太子となり、やがて父のあとを継いだ人です。皇帝になった玄宗は混乱した秩序の回復に力を注ぎ、有用な人材を多く登用して国力を増し、対外的にもモンゴル高原突厥(とっけつ)を屈伏させるなどの積極策をとり、その善政は「開元の治」と称えられ、唐の絶頂期を築きました。

 ところが、この玄宗、比類のない女好きというか、まさに色を好む英雄の典型の人だったようで、実に男30人、女29人の合計59人もの子どもを作っています。その第18皇子の妃に選ばれたのが、四川省の役人の娘で16歳になる楊玉環(のちの楊貴妃)でした。そして、740年秋、玄宗長安の郊外にある温泉地ではじめて息子の嫁の楊玉環に会ったとき、ひと目で彼女の虜になってしまいます。このとき玄宗56歳、楊玉環22歳でした。

 美しく豊満な容姿と才知をそなえ、音楽や歌舞にも優れていたとされる楊玉環。後の世に世界の三大美女の一人とされる楊玉環ですが、いったい唐の時代の美女とはどのような姿だったのでしょう。通説によれば、どちらかというとぽっちゃり型の体型に切れ長の目、小さな口が当時の美女の条件だったとされます。楊玉環もそんな感じだったのでしょうか。

 ところで、楊玉環への恋の虜となった玄宗は、どうしても彼女が欲しくてたまりません。しかし、いくら皇帝とはいえ、息子の嫁を横取りするわけにはいきません。でも、あきらめ切れない。そこでどうしたかというと、ひとまず彼女を道教の寺に入れて尼にしました。彼女が自らの意思で息子と離婚したという体裁をつくろったのです。そして、晴れて745年、玄宗は楊玉環を後宮に迎え入れ、女官の最高位で皇后に次ぐ「貴妃」の称号をあたえました。このとき、玄宗62歳、楊貴妃27歳でした。

 それからというもの、玄宗は政治に対する熱意を失い、腑抜けのようになってしまいました。楊貴妃の望みは何でもかなえてやり、たとえばライチという果物が食べたいと言えば、はるか何千キロの彼方の産地から早馬で取り寄せたりもしました。そればかりか、宰相となった楊国忠をはじめ、楊氏一族は悉く高位高官に取り立てられ、世の羨望の的となりました。そして、その専横ぶりが目に余りだすと、やがて周囲の大きな反感を買うようになってきました。

 そして、楊玉環が貴妃の座にのぼってから10年後の755年、宰相・楊国忠に不満をもつ節度使安禄山(あんろくざん)が反乱を起こしました(安史の乱)。中国周辺の民族をふくむ反乱軍15万に対し、朝廷は20万の兵を動員しましたが、反乱軍は翌年に長安に攻め寄せてきました。玄宗と楊氏一族は四川へ避難しますが、その途上、楊国忠は反乱軍の兵士たちに殺され、さらに楊国忠の息子、楊貴妃の姉たちも次々に殺されてしまいます。最後に残った楊氏の人間は楊貴妃のみになりました。「災いの責任は楊氏にあり」として決起した兵士らをしずめ唐を存続させるには、玄宗楊貴妃の誅殺を認めざるを得ませんでした。そして楊貴妃は絹で首を締められて殺されました。このとき38歳。

 玄宗は皇太子(粛宗)に位を譲って上皇となり、757年に長安へ戻りましたが、楊貴妃の肖像を前に泣かない日はなかったといいます。二人の愛を甘く悲しくうたった白居易の長編物語詩『長恨歌(ちょうごんか)』は広く知られていますが、やがて玄宗は粛宗との不和で幽閉同然となり、失意のうちに病死しました。それにしても一人の女のために国が傾く、楊貴妃はまさに「傾城の美女」、また、こういう女性を極めつきの「さげまん」といってよいのではないでしょうか。

 

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将軍・足利義輝の哀しみ

 足利義輝が13代将軍となったのは、1546年12月20日、わずか10歳の時でした。室町幕府というのは奇妙な政権で、将軍の膝元にはほとんど軍事力がありませんでした。もっぱら将軍配下の守護に軍事力を頼っていたのです。将軍も一応、奉公衆という直轄軍をつくってはいましたが、最盛期の3代義満のころでも2000~3000騎しかなく、義輝の時代にはぐんと減っていました。『群書類従』の雑部に「永禄六年諸役人付」という義輝の家臣名簿があるのですが、それで義輝膝下の人数をみると200人もいません。

 ちなみに徳川将軍の軍事力がどうだったかというと、実に万単位で、即日動員できる兵は8万、有事には20万もの大軍を指揮できる態勢にありました。同じ将軍でも、徳川と足利とでは膝元の軍事力に2ケタ以上の違いがあったのです。さらには応仁の乱の後は、将軍の権威そのものも決して磐石ではなくなってきました。

 ですから、自前の軍事力を持たない足利将軍は、誰かに推戴されなければ政権が維持できませんでした。推戴者に見放されてしまえば100人単位の家来を連れて京→坂本→比良山地と琵琶湖西岸を流浪し、新たな推戴者が現れるまで京にもどれないのが常でした。事実、9代以降の足利将軍はすべて亡命先で病没するか、京で殺されています。

 そのなかで若い将軍義輝は、可能な限りの努力をしました。幕府の権力と将軍の権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。また武田晴信長尾景虎島津貴久と大友義鎮、毛利元就尼子晴久、松平元康と今川氏真などの数多くの大名同士の抗争の調停を行ってきました。さらに自らの護身のため剣術を習い、火縄銃の研究に熱中。館を堀で囲いもしました。

 しかし城門が完成する前の1565年5月19日、別に傀儡将軍を擁立しようとしていた三好・松永の軍勢が来襲。義輝は天下の名刀を床に突き立て、次々に取り換えながらバッタバッタと敵を斬り倒しました。将軍のあまりの強さに、「御勢いに恐怖して近づき申す者なし」となりましたが、義輝の奮戦もそこまで。戸脇に隠れていた敵に足をすくわれ、転んだところを上から障子を倒しかけられ、槍でメッタ突きにされて絶命。いかに個人が努力しても、制度がそのままではどうしようもありませんでした。

 

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細川ガラシャの死

 1582年、本能寺の変によって「謀反人の娘」となった明智光秀の娘で細川忠興の妻・は、丹後国の味土野に幽閉されましたが、2年後に、信長の後に覇権を握った羽柴秀吉の取りなしで、細川家の大坂屋敷に戻されました。それまでは出家した舅の藤孝とともに禅宗を信仰していた玉でしたが、夫の忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに強く心を惹かれていきました。

 1587年2月、忠興が九州征伐のため出陣すると、玉は彼岸の時期を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に出向きました。教会ではそのとき復活祭の説教を行っていたところであり、玉は日本人修道士にいろいろな質問をしました。どういうやり取りがあったかは分かりませんが、その修道士は後に「あれほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。

 玉はその場で洗礼を受けたいと希望しましたが、教会側は、彼女の身なりなどから高い身分の女性であるのは察したものの、どこの誰かも分からないため、洗礼は見合わせました。細川邸では、侍女の帰りが遅いため玉が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で玉を連れ帰りました。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知りました。

 しかし、玉には再び外出できる機会がなかったため、洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいました。この間に侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせています。しかし、秀吉がバテレン追放令を出したのを知ると、玉は、急ぎ大坂に滞在していたイエズス会の神父から自邸で密かに洗礼を受け、ガラシャラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けました。

 九州から帰国した忠興は、玉がキリシタンになったのを知って激怒し、棄教させようとしましたが、玉は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになりました。しかし忠興は「5人の側室を持つ」などと言い出し、ガラシャに冷たく当たるようになります。ガラシャは「夫と離縁したい」と宣教師に告白しましたが、キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得しました。

 1600年7月に、忠興は、石田三成に対抗する徳川家康に従い、上杉征伐に出陣します。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折に、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていました。ただ、この習いは細川家に限ったものではなく、他家でも同様だったそうです。

 そしてこの隙をねらい、石田三成が、家康に味方する武将たちの奥方を人質に取ろうとします。大坂の細川屋敷にいたガラシャも標的にされましたが、ガラシャは拒絶。すると翌日、三成は兵に屋敷を包囲させ実力行使に及びました。ガラシャは、屋敷内の侍女・婦人らを全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女らを逃亡させました。そして、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清ガラシャの胸を長刀で突いて介錯し、遺体が残らぬよう屋敷に爆薬を仕掛け火を放って自刃しました。

 ガラシャの死を知ったオルガンティノ神父が細川屋敷の焼け跡に駆けつけ、ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りました。忠興はガラシャの死を痛く悲しみ、オルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ移しました。

 もともと気位が高いばかりのガラシャでしたが、キリシタンになってからは、心穏やかな女性に変わったと言われています。キリスト教への信仰が、彼女の美しさをさらに引き立て、波乱万丈の人生のなかで心の平穏を求めていたガラシャに深く寄り添ってくれたのでしょう。享年37歳。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」との辞世の句が残されています。

 

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蛇のような女?

 1578年、織田信長の媒酌により、明智光秀の三女・細川藤孝の長男・忠興が結婚しました。信長は家臣間の婚姻を統制しており、この結婚も主君の命によるものだったようです。ともに数え年で16歳の若さでした。美男美女のまさにお似合いの夫婦で、信長も「人形のようにかわいい夫婦」と褒め称えたそうです。翌年には長女が生まれ、さらにその翌年に長男が生まれました。

 忠興の父・藤孝は当代一流の文化人であり、息子の忠興も同様に教養が高く、武将としても優秀な人物でしたが、かなり血の気は多かったようです。美しいうえに頭も良く気が強かった玉とは、仲の良い夫婦だったといいますが、二人にはこんな逸話も残っています。

 あるとき、忠興が、玉の側近くに仕えていた下僕を手討ちにしました。そればかりか、血のついた刀を玉の小袖でぬぐったのです。玉は顔色も変えず、忠興が詫びるまでの数日、ずっとその小袖を着続けました。弱った忠興は玉に詫びながらも、「蛇のような女じゃ」と言いました。すると、玉は「鬼の女房には蛇が似合いでしょう」と応じたといいます。こわ~~

 そんな夫婦でしたが、結婚して4年後の1582年6月、事態は一変します。父の光秀が本能寺で信長を討ち(本能寺の変)、自らも山崎の戦いで敗れました。これによって玉は「謀反人の娘」となってしまいましたが、忠興は玉を離縁はせず、表面上は離縁を装い、玉を丹後の国の味土野(みどの)へ幽閉しました。これは、愛していた妻の命が狙われないように隠したとみるべきでしょうか。幽閉期間は2年に及び、その後、ようやく羽柴秀吉の計らいで大阪の細川屋敷に戻ることができました。

 

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殷(いん)の紂(ちゅう)王

 「(いん)」は、現在確認されている”中国最古”の王朝で、前17世紀ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配していました。日本では殷とよばれることが多いのですが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは「」と称していました。中国で最も早く、ある場所で安く購入した物資をその物資が乏しい別の地で高く売って差益を稼ぐ者が現れたことから、今の「商人」の語源となったと言われますが、これはどうやら俗説のようです。

 漢代の歴史家・司馬遷の『史記』によれば、中国の歴史は黄帝を祖とする5人の聖天子の統治によって始まったとされます。そして、五帝の最後の(しゅん)が重用したのが、(う)でした。禹は初代黄帝の子孫で、黄河の治水に功績をあげたことでも有名で、やがて夏(か)王朝を興しました。また、禹の縁戚にあたる(せつ)も同じ時代に舜に仕え、夏王朝の創建に功をあげたとして領地を与えられました。そして、その14代目の成湯(せいとう)が、腐敗した夏王朝をほろぼして殷王朝をひらいたとされます。

 実は20世紀に入るまでは、五帝から夏・殷・周に至るまでの歴史はあくまで伝説に過ぎないと考えられていました。しかし、19世紀の終わりごろに古代の文字(甲骨文字)が刻まれた骨片が北京市内に出回り、古文字学者らの研究によって伝説の殷王朝の王の名前が判読でき、殷が実在した可能性がきわめて高くなったのです。

 甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨は、河南省の安陽で出土したと確認され、大規模な発掘調査の結果、殷王朝の宮殿や王族の墓などが発見されました。この「殷墟(いんきょ)」とよばれる都市遺跡の発掘によって、伝説の殷王朝の実在が証明され、現在も引き続き調査が続けられています。

 殷では重要な国事はすべて神意を占ったうえで王が決定する「神権政治」が行われていました。しかし、殷の末期には、たび重なる外征や王の暴政が続き、民衆の恨みが膨らんでいきました。そして前1024年、遠祖・契から数えて30代目にあたる紂(ちゅう)王のときに殷は滅亡してしまいます。

 その原因は、何といっても紂王の乱行にありました。紂王はもともとは優れた才能と体力の持ち主だったのですが、臣下らがすべて愚鈍に見えたためか、諫言を受けても得意の弁舌で受け流し、やがて傲慢で暴虐な政治を行うようになりました。忠臣の諫言さえもいっさい聞き入れなくなってしまいます。

 酒色を好んだ紂王が、姐己(だっき)という王妃を寵愛するようになると、その逸脱ぶりはますます激しくなってきました。「酒池肉林」といわれる放蕩の限りを尽くしたのはよく知られ、あまりの腐敗堕落に対し、反旗を翻す重臣や諸侯も出てきました。しかし、紂王はこれらの者を厳罰に処し、いっこうに自らの行いを改めようとしませんでした。

 殷王朝には三公とよばれる大臣職がおかれ、当時は西伯昌(せいはくしょう)、九候(きゅうこう)、鄂候(がくこう)の三人がその職に就いて王を補佐していました。ところが九候は、紂王に嫁いだ娘が王に背いたという理由で死罪となり、鄂候は王の非行を諌めたのが原因で殺されました。

 残る西伯昌も、讒言(ざんげん)を受けて一時囚われの身となりましたが、何とか命だけは助けられ、故郷の周に帰国しました。彼は紂王に知られないようにその地で善政を敷き、民衆の信望を集めていきました。やがて西伯昌が没し、皇太子のが王位を継ぎますが、この発がのちに王朝を立てる武王であり、武王の参謀に就いたのが太公望として名高い呂尚(りょしょう)です。

 このころ、殷王朝では大きな事件が三つ続けて起こっています。その第一は、紂王の異母兄である微子(びし)が国を見捨てて去ってしまった事件です。微子は、これまで何度となく王を諌め、国の立て直しをはかってきましたが、ついにあきらめ、「父と子は血縁で結ばれた親子関係であるから切っても切れない。しかし君臣は義によって結ばれたもので、たとえ親族であっても諫言して入れられなければ君臣関係は終わりだ」と言って国外に出ていってしまったのです。

 第二は、同じく紂王を諌めた叔父の比干(ひかん)が殺された事件です。比干は「臣たる者は命を投げ出しても王に過ちあらば諌めなければならぬ」といって、真っ向から王の非行を責めました。これに激怒した紂王は、「聖人の心臓には7つの穴があると聞いている。試しに比干の胸を割いてみよ」と部下に命じ、その場で比干の心臓をえぐりだすという残虐な行為に出ました。

 そして第三に、比干と同じ紂王の叔父の箕子(きし)が、王の贅沢を国の将来を危うくするものとして諄々と諌めましたが、やはり聞き入れられません。箕子の身を案じた周囲の者が、彼に国外へ逃れるようにと勧めましたが、箕子は従おうとしませんでした。

「叔父とはいえ臣下たるもの、諫言が入れられぬからといって国を捨てたのでは、主君の恥を世間にさらすのみか自らの責任を放棄したことになる」

 そう言って、狂人を装い国にとどまりましたが、紂王はそんな箕子を投獄します。そして、この事件を知った周の武王がついに殷討伐を決意します。武王は軍を率いて殷を攻め、殷都の南、牧野(ぼくや))おいて殷の軍を打ち破りました。このとき殷軍は70万を超える大軍だったものの、その兵は奴隷が多くを占め、戦意がないどころか武王が来るのを待ち望んでいたほどのありさまだったといいます。勝敗はあっという間に決し、武王は紂王を自殺に追い込み、姐己を殺し、紂王の首を殷の象徴である白旗の先につけて天下にさらしました。

 こうして約600年にわたる殷の支配は終わりました。周王朝を建てた武王は天子となり、紂王に殺された比干の墓を改装、また、幽閉されていた箕子を解放し朝鮮に封じました。なお、これら紂王についての伝記は暴政や悪事についてが殆どですが、殷を倒した武王の功績を正当化するために敢えて暴君として描いたとも考えられており、信憑性に乏しいものも少なくないようです。また、孔子の弟子だった子貢は「紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」と述べているなど、かなりの悪評がある一方で、それを懐疑的に見る向きもあることを記しておきます。

 

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小説 伊尹伝 天空の舟 上 (文春文庫)

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