凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

武田信玄による「よい部下の見分け方」

 戦国の武将・武田信玄がこんなことを言っています。

「私が若い者と話をすると、三通りの反応を示す。一つ目はポカンと口を開けて私の話に呑み込まれているタイプ。二つ目は、私の喉(のど)あたりをじっと見つめていて、分かっているのか分かっていないのかはっきりしないタイプ。三つ目は、私が話している間じゅう、いちいち相槌を打ったり笑顔を見せたりするタイプ」

 信玄はさらに話を続けて、

「一番目のポカンと口を開けて私の話に呑まれているのは、自分の判断がまったくつかないヤツだ。二番目の、喉のあたりをじっと見つめているのは、一見愚かそうに見えるが、実は私の言うことを一つ一つ噛みしめ、頭の中で反芻(はんすう)している。三番目の相槌を打ったり笑ったりする者は、いかにも話を理解していますよと言いたくて、そういう態度をとるのだ」

 そして「どのタイプがいちばん大事か?」に関して、

「二番目がいちばん頼もしいタイプ。私の話の内容をきちんと整理し、決して鵜呑みにはしない。分からないことがあったら、おそらく後で聞きに来るだろう」

 これと似たような話を、同時代の武将・小早川隆景も語っています。

「すぐ分かったという部下に、分かったためしはない。私はそんなに単純な話しはしていない。だから、話をした時には一見ぼんやり聞いているようでも、優れた人間は必ず後で質問をしに来る。こういう人間こそ頼もしい」

 上司の皆さま、いかがでしょう? ご自身の部下のなかに思い当たる人物はいらっしゃるでしょうか。

 

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名君・徳川家宣

 48歳で江戸幕府6代将軍となった徳川家宣は、綱吉が死んでわずか1週間後に「生類憐みの令」を廃止しました。これによって、全国でおよそ1万人の人が赦免されました。綱吉は、死の直前、家宣に「生類憐みの令は100年後も続けてくれ」と言い残していました。しかし家宣は、綱吉の柩に向かって「私は、生類憐みの令を100年守ります。でも、天下万民は免除してやってください」と言ったといいます。

 家宣は、役人に賄賂を贈ることを固く禁じました。将軍になる前、綱吉の養子として江戸城西の丸に入ったとき、下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持ってきたものの、家宣はこれらを一切受け取らなかったといいます。さらに、庶民に将軍行列の参観を認めたり、政治批判の落書さえも自戒にしたりしました。また、側近の新井白石から、家康・秀忠・家光の事跡などを熱心に学んだといいます。そして、家宣は慈悲深くもあり、「極悪非道の罪人でも、何か許す点がないか捜せ。そして罪を軽くしてやるのが本当の政治なのだ」と語ったといわれます。

 しかし、もともと体が弱かったため、わずか3年9ヶ月で病に倒れます。当時流行っていた感冒(インフルエンザ)に罹ったとみられています。そこで、次期将軍を決定しておくのが急務となりました。家宣には4歳の息子・鍋松(家継)がいました。しかし、家宣は鍋松が将軍になることを否定しました。新井白石を枕元に呼び、「次期将軍を尾張殿(徳川吉通)に譲ろうと思う」と語ったといいます。

 これを聞いた白石は驚愕しました。尾張家から将軍を招くとなると自分の地位もどうなるか分からない、そう思った白石は必死になって家宣を説得、「吉通公を将軍に迎えては、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いとなり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねませぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはありません」と、強く鍋松を推しました。しかし、それに対して家宣は言いました。

「鍋松は幼く、古来、幼君のときに天下が平穏であった試しは少ない。また天下のことは私すべきものではない。家康公が御三家を立てられたのも、こういうときのためだ」

 しかし、結局は白石ら譜代の者の強硬な後押しによって、7代将軍には鍋松が就くことになります。家宣は、臨終の間際、枕元で泣く側近たちに向かってこう語ったといいます。

「泣くな、馬鹿者。人間が死ぬのは当たり前ではないか」

 それが最期の言葉でした。享年51歳。

 

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柿本人麻呂の死

 万葉の時代には、和歌は日本文化を代表する一大芸術であり、なかでも、柿本人麻呂はその世界にあって一世を風靡した天才歌人とされます。三十六歌仙の一人でもあり、山部赤人とともに「歌聖」と称えられる人麻呂は、現在も歌の神として各地の人丸神社に祀られています。ところが、人麻呂の生涯は全くもって謎だらけです。『日本書紀』などの史書にはその名が見えず、手がかりとなるのは『万葉集』に収められている歌とそれに付随する題詞、左注だけなんですね。

 『万葉集』には人麻呂作の長歌19首、短歌75首が載っており、それ以外に『人麻呂歌集』として集められた歌が360首余あり、この中にも彼の自作の歌が含まれていると言われています。活動を開始したのは天武天皇の時代で、皇子、皇女の死に際しての挽歌や天皇行幸に供奉しての作が多いことから、持統期から文武期にかけて活躍した宮廷歌人だったと確認されています。しかし、彼の生没年や経歴などはいっさい不詳なのです。

 人麻呂の属する柿本氏は、『古事記』によると第5代・孝昭天皇の皇子の系統とされます。大和国添上郡を本拠地とし、『続日本紀』には人麻呂と同族と思われる柿本佐留という人物がいます。人麻呂と同一人物とする説もありますが、とくに根拠はないようです。また、人麻呂の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降、益田氏を称して石見国人となったともいわれますが、これも定かではありません。

 出自とともに、人麻呂の死をめぐる問題も大きな謎となっています。『万葉集』巻第二には、人麻呂が石見国島根県)の鴨山(かもやま)で臨終を迎えたときに、自らを悲しんで詠んだ歌が残されています。「鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」という歌で、一般には「私は鴨山の岩を枕に死を迎えようとしているが、妻は、それを知らずに今も私を待ち続けていることだろう」のように解釈されます。しかし、これとて必ずしも定まった解釈ではないようです。

 また『万葉集』では、人麻呂の死を「死」という漢字で表記しています。この時代、人の死を記す場合は、三位以上なら「薨」、五位以上なら「卒」、それ未満は単に「死」と文字を使い分けていました。さらに五位以上であれば、その事跡が正史に記載されるはずが、その記載がありません。それらの理由から、人麻呂は六位以下の下級官吏だったと考えられています。一方、人麻呂は元は高官だったが、政争に敗れて刑死したとする説もあります。そもそも巻第二には、不慮の死を遂げた人や政治的に抹殺された人達の歌が中心に掲載されていて、その最後に人麻呂の歌が載せられているのです。

 不肖私としましては、確かな根拠があるわけではないのですが、官位を落とされて刑死させられた(水に沈められた)説に与したく思います。だって、ずっと下級官僚だったとして、皇子、皇女の死に際しての挽歌や天皇行幸に供奉しての作をあんなに多く作れるものでしょうか。ですからねー、件の歌も「鴨山の岩を抱いて沈む私の運命を知らずに、妻は私の帰りをずっと待ち続けていることだろう」との解釈に賛同したく思う次第です。

 

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コレラ、大流行!

 コロナウィルスによる新型肺炎の各国への蔓延が非常に心配な状況です。そもそも伝染病が世界的に流行しだしたのは19世紀になってからだとされます。人とモノの国際的な交流が活発化してきたからですね。その19世紀はじめに世界的な大流行をみせたのが、もともとインドの風土病だったコレラです。

 日本ではじめてコレラが流行したのは1858年(安政5年)のことです。長崎から全国に広がったコレラは当時はコロリとよばれ、多くの犠牲者を出しました。明治に入っても、1877年(明治10年)、79年に流行し、79年には死者10万人を突破するほどの猛威をふるいました。さらに1895年には軍隊内で流行し、4万人が死亡しました。

 当時の日本には、外国船に対して検疫を行う権限がありませんでした。船舶への検疫規制を通知してもまったく無視されたのです。こうしたことからも、領事裁判権の撤廃を求める声が強くあがりました。けっきょく、明治年間のコレラによる死者の数は、日清・日露両戦争における死者を上回りました。

 コレラ患者は、各地につくられた避病院に強制的に収容され、隔離されました。病院の建物には「虎死刺(コレラ)」の3文字を記した黄色の旗を立て、人の出入りを厳しく取り締まりました。また。患者を病院に入れるのは「生き肝」をとるためで、死んでも家族との面会を許されないとの流言も生まれ、病院を襲ったり、医者が殺害されるなどの事件も起こりました。

 

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「生類憐みの令」による社会の転換

 織田信長は、領内の乱れた治安を回復するために、「一銭斬り」という刑法を施行しました。これは、たとえ一銭でもドロボウした者は死刑に処するという、ムチャクチャ厳しい法律でした。現行犯だとすぐその場で斬首でした。しかし、この法によって、尾張の国は「女が一人旅できる」ほどの安全な国となったのです。信長の大きな功績の一つです。

 作家の井沢元彦さんは、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」も、これと同じ視点で評価すべきだとおっしゃっています。戦国の世からまだ半世紀しか経っていないあの時代、武士階級をはじめ人々の心は殺伐としていました。人の命はいたって軽く、肩が触れたとかどうとか、そんなつまらないことで人が殺しあう時代でした。往来に人の死体が放置されている光景も珍しくはなく、まして動物愛護の精神などカケラもなかったのです。

 それを綱吉は「生類憐みの令」によって変えたのだと井沢さんは主張します。人を殺して褒美をもらえた社会から、犬を殺しても死刑になる社会への劇的な大転換。これによって、日本人は羊のようにおとなしくなり元禄の盛世を迎えたのだと。大いになるほどのお話です。

 それから、「生類憐みの令」で特筆すべきは、まず、身分を問わず厳格に適用された点です。ただし動物を殺傷するに至った事情は考慮されていました。たとえば道端で寝転んでいる犬を、大八車で轢いてしまう事故が頻発したそうですが、重い荷を運ぶ大八車は急に止まれるものではありません。そうしたやむを得ない事情で犬を轢いてしまった場合などは無罪とされたのです。運用面ではけっこう斟酌があったものの、法は武士にも町人にも公正・厳格に適用され、武士だから許されるということはなかったのです。

 また、「生類憐みの令」は動物に対してだけでなく、人間への残虐な行為も取締りの対象としていました。綱吉が亡くなると、法はただちに廃止されてしまいますが、この部分は引き続き幕府の基本方針として継続されました。「生類憐みの令」が登場する前と後とでは、「命」に対する人々の価値観、考え方、接し方はガラリと変わったのです。弊害は決して小さくはなかったものの、この法が社会に果たした役割はきわめて大きかったのではないでしょうか。

 

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「誤解」の日本史 (PHP文庫)

「誤解」の日本史 (PHP文庫)

 

否定される「進化論」

 かの「ダーウィンの進化論」が全否定される可能性が強くなった! アメリカの科学メディアに掲載された記事によれば、10万種以上の生物種の DNA と、アメリカ政府の遺伝子データバンクにある 500万以上の DNA の断片を徹底的に調査したそうです。その結果、現在地球にいる大半の生物が地球上に登場したのは、10万年〜20万年前の間だとわかったそうです。そして進化の過程にある「中間種は存在しない」って。

 これまで言われてきた「人類誕生までの地球の歴史」は46億年前から始まり、35億年前くらいに最初の生物が誕生し、そこから徐々に進化してきたというものでした。しかし、実はこの地球の生物の 90%以上は、それ以前への遺伝子的なつながりはなく、 20万年前以降に現れてから後、決して「徐々に進化」などしていないというんです。

 憚りながら不肖私も、素人ながらそういうもんだろうと考えるところです。だって「進化論」が正しければ、今いるサルの中に、将来は進化して人間になるヤツが出てくることになります。でも、どう見ても人間にはなりそうもない。サルはずっとサルのままのような気がします。海にいる魚がやがて陸に上がって爬虫類や哺乳類になるとも考えにくい。魚はずっと魚のまま。そう思いませんか?

 

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『麒麟がくる』!

 今年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』、ご覧になっていますか? なかなか面白いですねー。ほとんど知られていない明智光秀の前半生についてはもちろんのこと、日本史上最大の謎ともいえる「本能寺の変」を起こした理由について、いったいどの説をとるのか、まことに興味津々です。歴史好きの皆さまはどのように予想しておられるでしょうか。

 ここで改めて諸説を整理しますと、(1)光秀が天下を狙ったという野望説、(2)信長の横暴への恨みが募ったという怨恨説、(3)秀吉、家康、または朝廷による黒幕説、(4)信長による四国征伐を防ごうとした四国動乱説などが主なもので、他にもいくつもの説が唱えられていますね。

 私は、当ブログで以前にご紹介しました、『新説 本能寺の変 431年目の真実』の著者の、光秀の子孫にあたる明智憲三郎さんが掲げる説を強く推薦したく思います。氏がご先祖に対する謀反人の汚名を晴らすため、いろいろな史料を紐解いて至った結論とは、光秀が、信長から「家康を本能寺におびき寄せて殺せ」と命じられたものの、それに逆らった結果が本能寺の変だとするものです。つまり光秀が信長の策謀から家康を守り、信長に逆襲した。家康と光秀はそれまでひそかに通じていて、その証拠の書状もあるといいます。

 ただ、そこで終わってしまっては尻切れトンボですからね、さらに光秀が山崎の合戦の後も生き延び、その後、家康の傍に参謀として突如現れた天海僧正という人物、これこそが光秀だというビックリ説。これも併せて強く推したく思います。だって、愉快痛快この上ないじゃないですか。まさに「麒麟」の働き。でも、脚本家さんがそこまで飛躍するわけないですね。

 

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