凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

「古墳群は『遺産』ではない」

 先だって、百舌鳥・古市古墳群ユネスコの諮問機関が世界文化遺産に登録するよう勧告したとのニュースがありましたね。地元は大いに沸き立っているようですが、私なんぞ、「いったいどこまで世界遺産は増えるんだ?」と醒めた目で見ておりました。

 そしたら、杉田水脈さんがブログでこんなふうにおっしゃっています。
 
―― 仁徳天皇陵は、秦の始皇帝陵やエジプトのピラミッドのように、末裔が確認できない遺跡ではなく、神代から現在まで連綿と続いている皇室の陵墓であり、「遺産」ではありません。ご先祖さまのお墓を電飾で飾り立て、観光名所にされて嬉しい人はいないのではないでしょうか。「静かな眠りを妨げることは不敬極まりない」と感じる方も少なくないと思います。本来は、静謐な祈りの場であるはずの仁徳天皇陵が観光地化されてしまうことに、大変危惧をしております。――
 
なるほどー、こういう捉え方もあるんですね。まことに思慮深いご意見だと感じます。

 

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平忠度の都落ち

 平忠度(たいらのただのり)は清盛の異母弟で、優れた歌人でもあった人です。その忠度が源氏に追われ、京の都を落ちていき、山崎あたりまで逃れたところで、急きょ6人の従者と共に引き返しました。そして、歌の師であった藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)の屋敷を訪ねました。

 すでに平家追討令が出ているので、忠度も勅勘の身です。俊成の邸内は「落人が帰ってきた!」と大騒ぎになりました。いくら師弟の関係といっても、門を開けて忠度を迎え入れるわけにはいきません。忠度は、

「格別のことはございません。お願いしたいことがあって引き返して参りました。門を開かれなくとも、この際までお寄り下さい」

と叫びました。俊成は「何か事情があるのだろう」と思い、わずかに門を開けて対面しました。忠度は一巻の巻物を取り出し、

「もし世が鎮まって、勅撰集を編むというときがくれば、この中から一首なりともお採りいただければ悔いはありません」

と言って、そっと置いていきました。そこには忠度の詠んだ歌が百余首収められていました。このときの忠度は、すでに死を覚悟していました。もはや、自分の歌が勅撰集に収められる日を見ることができないのは分かっている。だけども、自分の命よりも大切にしたいものがある。彼にとって、後世に長く伝えられるであろう勅撰集に、自分の歌が載せられることのほうが、何より大切なことだったのです。

 忠度はこの後の一の谷の戦いで討死、享年41歳でした。忠度の死後、後白河院の勅撰によって『千載集』が編まれましたが、選者となった俊成は忠度が遺した巻物の中から、「故郷の花」と題された、

 さざ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくらかな

という一首を載せました。しかし、平家は勅勘の身だったので、作者は「詠み人知らず」とされました。

 

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平家物語 (岩波文庫  全4冊セット)

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清少納言が仕えた中宮定子

 清少納言が、一条天皇中宮(皇后の異称)定子に初めて出仕したのは正暦4年(994年)ころで、その時、定子18歳、清少納言は28歳でした。定子は、中関白と称せられた藤原道隆を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生しました。正暦元年に一条天皇後宮に入内し、中宮となりました。

 清少納言が初めて出仕したころは、中関白家の全盛期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々でした。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だったといわれます。『枕草子』は、定子の外面・内面に及ぶ魅力が伝えており、その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けました。

 しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転しました。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家が失脚させられたのです。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となりました。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれました。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王親王を出産しました。長保2年に皇后となりましたが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去しました。

 清少納言は、道長の世となった後も、献身的に定子に仕えましたが、定子が亡くなった後、ある期間の服喪を終えてから辞去しました。

 

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枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

 

柳沢吉保の処世術

 柳沢吉保は、もとは館林藩士であり、小姓として藩主・綱吉に仕えていましたが、その綱吉が5代将軍となったことから運命が急転しました。綱吉に従って幕臣となり、将軍の身辺雑務をこなす小納戸役(こなんどやく)を拝命。すぐに綱吉のお気に入りとなり、わずか数年で和泉・上総両国あわせて1万2000石の大名となり、最終的に甲斐一国をあたえられて甲府城主となりました。徳川260年の治世のなかで、これほど立身出世した人物は他にいません。

 役職も老中上座に就任、さらに綱吉から松平姓を賜ります。松平を名乗るというのは徳川一族であることを意味します。もう破格の大出世です。彼がここまでとんとん拍子にのし上がれたのはなぜでしょうか。『徳川実紀』には、柳沢について次のように書かれています。

「吉保、とかく才幹のすぐれしかば、・・・・・・よく思召しをはかり、何事も御心ゆくばかりにはからいし故、次第に御寵任ありし」

 つまり、相手の気持ちを素早く察し、期待を裏切ることがなかったというのです。歓心ばかり買い続けたイエスマンだったといえなくもありませんが(ドラマなどではこのイメージばかりが強調されますね)、かといって、お追従ばかりでこれほど長続きもしなかったでしょう。並大抵の才能と努力では無理だったはずです。とはいうものの、吉保が残したという言葉にこんなのがあります。「泰平の世の中で出世するのは、カネと女を使うに限る」。・・・・・・。

 ところで、彼のように権力者に追従して出世した人間は、その権力者が死ぬと、周囲や次の権力者から弾劾されて失脚するパターンが多いのですが、柳沢はそうならずに生き延びました。その理由は出処進退の鮮やかさにあったようです。彼は綱吉が死ぬと、スパッとすべての役職から退き、家督を嫡子の吉里に譲り、頭を丸めて隠居してしまったのです。その潔さによって、柳沢藩は廃絶されることもなく、明治維新まで存続しました。

 

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寛政異学の禁

 江戸幕府は成立以来、儒学、とくにそのうちでも朱子学を、封建教学の根本としました。朱子学は中国・南宋朱熹が大成した儒教の新しい学説です。有体に言えば、道徳や秩序によって社会を守ろうという理念に基づいており、徳川家康に登用された林羅山は、万物には必ず上下があると考え、これは人間社会も同じであると説きました。こうした考えを「上下定分の理」といい、秩序を維持しようとする幕府の考えに沿うものでした。

 しかし、次第に朱子学に飽き足らぬ人々が多くなり、「知行合一」を説く実践的な儒学である陽明学や、直接に孔子孟子の経典を研究しその真の精神を明らかにしようとする古学派、さらには、いずれの学派にも偏せず学問研究法の自由を主張する折衷派など、朱子学以外の学問が盛んになってきました。これに対して、幕府の教学体制の中心である林家には人材が出ず、朱子学は衰える一方でした。

 そうした中、寛政2年(1790年)5月、幕府は大学頭林信敬にたいして、湯島聖堂においては朱子学以外を教授しないように通達しました。頼春水(らいしゅんすい)、尾藤ニ洲(びとうにしゅう)、柴野栗山(しばのりつざん)、古賀精里(こがせいり)、西山拙斎(にしやませっさい)らが、老中松平定信に建白したのがきっかけでした。これを「寛政異学の禁」といいます。

 あくまでも湯島聖堂にかぎったことで、全国諸藩に通達し強制したものではなく、罰則が伴うものでもなかったのですが、これに対して朱子学以外の学者が猛反発しました。しかし7年後に学問所が官立に改められ昌平坂学問所が設立されると、学科内容や登用試験が朱子学のみだったため、「右に倣(なら)え」で藩校に朱子学者を用いる傾向が強くなりました。一方、尾張藩会津藩彦根藩のように折衷派ほかの学者を教官とする藩もありました。昌平坂学問所の教員の中にも、学問所では朱子学を、自宅では陽明学を教授し、また学問所での講義でも朱子学の学説について一通り教授した後に、朱子学陽明学の比較に論及する者もあったようです。

 

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田沼意次と松平定信

田沼意次と松平定信

 

孔子の弟子たち

 孔子が指導した70人以上の弟子たちの中から、とくに有名な3人の高弟についてご紹介します。

 まず、孔子の一番弟子といえるのが、顔回(がんかい)で、字(あざな)は子淵(しえん)といいました。当時は、年長の親族や師匠以外は本名を呼べないしきたりでしたから、字というニックネームが使われていました。顔回孔子より30歳年下で、孔子は、優秀だった彼を学問上の後継者として考えていました。そんな彼を、孔子はこんなふうに評したことがあります。

「学を好む。怒りを遷さず、過ちをふたたびせず」

 怒りを遷さず、というのは八つ当たりをしないという意味です。学問好きで、感情を他人に向けず、同じ過ちを2度しない。名誉栄達を求めず、その暮らしぶりも質素だったといいます。しかし、残念なことに、彼は若くして亡くなってしまいました。それを知った孔子は、

「ああ、天われを滅ぼせり、ああ、天われを滅ぼせり」

と慟哭したと伝えられています。いかに彼の死が打撃だったかが、ひしひしと伝わってくる言葉です。

 そして次なる弟子は、子路(しろ)で、本名を仲由(ちゅうゆう)といいました。この子路は変わった経歴の持ち主で、もとは今でいうやくざのような一員でした。孔子という、偉そうな人間がいると聞き、一つ脅かしてやろうと、派手な格好をして孔子のもとへ乗り込んできたのです。ところが子路は、孔子と直接話をしてみて、たちまちその魅力に参ってしまいます。

 けっきょく子路は弟子入りしますが、孔子と年が6歳しか離れていなかったため、孔子にとって、軽口をたたいたり冗談を言ったりし合える、気の置けない弟子だったようです。孔子は、彼の直情、軽率さを時に咎めつつも、率直な性質を愛したようです。一方、子路孔子のいさめ役になる場合もあり、そんなとき孔子子路の諫言をほとんど聞き入れています。2人は、まさに信頼しあう師弟だったのでしょう。

 さらに3番目が子貢(しこう)で、本名を端木賜(たんぼくし)といいます。孔子より31歳年下の彼は、すぐれた外交官であり、また金儲けの名人でした。値段の安い品を大量に仕入れておいて、高くなったら売るというやり方で富を成し、それを孔子や教団のために惜しげもなく使っていたそうです。また、話の聴き上手で、『論語』のなかには、子貢でなければ引き出せなかったであろう孔子の名言が、いくつも収められています。孔子の死後は、弟子たちの実質的な取りまとめ役を担いました。

 

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⇒孔子さまの言葉

⇒韓非子を読む

⇒孫子に学ぼう

11代将軍・家斉の放蕩

 10代将軍・家治に跡継ぎとなる子がなかったことから、御三卿の一橋家から家斉(15歳)が11代将軍となりました(1787年)。そのころは、老中・松平定信による寛政の改革の真っ最中でしたが、その施策が厳格すぎたためにやがて家斉と対立するようになり、定信は罷免されてしまいます。しかし、家斉が親政を行うようになると、前代の田沼時代以上に世相は腐敗していきました。

 家斉の政治には見るべきものは何もありません。それどころか奢侈にふけり、幕府の出費は膨らむ一方でした。なかでもいちばん金を使ったのは、大奥ではないかともいわれます。大奥の定員は通常は700人程度なのに、家斉が大御所になってからは倍になっています。この男、無類の女好きで、側室は40人もいましたし、特定されるだけでも16人の女性に55人もの子どもを生ませています。

 そのうち男13人、女12人が成人しましたが、その多くの子女を大名の養子にやったり、嫁入りさせたりしました。迷惑したのは諸大名です。尾州など4回も家斉の子女を押しつけられています。本来の系統を全くないがしろにされ、とうとう徳川本家に乗っ取られた形になってしまいました。

 鳥取池田藩も第33子の乙五郎を長女喜代姫の婿としましたが、その間に生まれた男の子に、第54子の泰姫が降嫁しました。福井藩松平斉承は第21子の浅姫を娶り一子をもうけますが、その子が早世してしまうと、まだ第二子が生まれる可能性があったにもかかわらず、第50子の千三郎を夫婦の養子として押しつけられました。しかも千三郎は盲目で、当時の観念では、目の不自由な者には藩主が務まらないとされていましたから、家斉のやり方はあまりに強引でした。

 

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