凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

将軍秀忠の下問

 もとは丹後国宮津城主だった細川忠興は、関ヶ原の戦では徳川家康の東軍に加わり、その功によって豊前・豊後に39万石余を加増転封されました。忠興といえば、大河ドラマ麒麟がくる』に出ている細川藤孝の長男で、明智光秀の娘・ガラシャの夫だった人ですね。その忠興が、あるとき江戸城中で、2代将軍・徳川秀忠からこのような質問を受けました。

「天下の政治はどのように行ったらよいと思うか」

 それに対し忠興は、

「四角い器に丸い蓋をするようになさいませ」

と答えました。万事几帳面で厳格だった秀忠に、もう少しアバウトになさっては如何と言ったのです。またあるとき、忠興は老中たちが居並ぶ中で、秀忠から、

「人柄のよい人間とは、どのような者か」

と尋ねられました。すると忠興は、

「明石の牡蠣(かき)のような者をよき人と申します」

と答えました。老中たちは、その意味が理解できず怪訝そうな顔をしていると、忠興は次のように注釈しました。

「明石の浦は天下一の荒海です。ここで獲れる牡蠣は、荒波にもまれて表面がなめらかになっています。人間もそれと同じで、多くの苦労にもまれて角が取れ、よき人柄になるのです」

 なるほど、と秀忠ほか列席していた一同は大いに感心したということです。

 

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『竹取物語』と富士山

 新幹線(東海道)の車窓から見える富士山。いつ見てもいいもんですね。しょっちゅう乗っている常連のビジネス客などは目もくれようとしませんが、私なんぞは新幹線に乗るたび、いつも心わくわくしながら富士山を眺めています。ただ、あまり珍しそうにガン見しているといかにも「お上りさん」みたいですから、あくまで平然を装って見ております。

 ところで、日本でもっとも古い物語とされている『竹取物語』、かぐや姫が登場するこの物語に、当時の富士山のようすが書かれていますね。しかも、その富士山は頂上から煙を出しています。物語の最後のほう、かぐや姫が月に帰ってしまった後のこと、天皇かぐや姫に貰った手紙と不死の薬を天にいちばん近い山の頂で火をつけて燃やすように命じ、そのためにその後ずっと煙が立ち上っているというのです。さらには、天皇の命令に従い多くの兵士が山に登ったことから、「富士の山(士に富む山)」と名づけたとも。

 いやはや何とも壮大なお話です。しかし、もし今の富士山が煙を吐き出していたら、趣きが全然違ってきますね。新幹線も走れないかもしれない。活火山である富士山は、近い将来、再び噴火するともいわれていますが、ずっと今のままがいいですねー。

 

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bonjin-ultra.com

朝礼の歴史

 学校や職場などで行われている「朝礼」。ごくお馴染みの風景ではありますが、中小企業の社長さんや組織の長を任されている人で、毎日の「朝礼」をないがしろにしている人はいないでしょうか。私は、組織全体のモチベーション・アップのためには、朝礼はとても重要な役割をはたすものだと思っています。

 そもそもわが国で朝礼が導入されたのは、明治時代に新たな「学制」によって開設された小学校においてだとされます。その目的は、もちろん訓話やいろいろな伝達の必要もありましたが、何より「集団性の育成」にあったんですね。それまでそういう経験のない、さまざまな環境で育った子どもたちが一挙に集められたわけですから、まずはそこからスタートした。

 そうした朝礼による「集団性の育成」の役割は今も同じで、これをきちんとやるかどうかで、その組織のまとまりは格段に違ってくるといいます。かといって、朝礼の中身を充実させる必要はさらさらないんです。よく本屋で、朝礼の話のネタ本なるものが売られていますが、そんなものに頼っても、たちまちネタは尽きてしまう。マンネリを恐れることなかれ、マンネリ大いに結構。

 何が大切かといえば、同じ時間に、同じ場所にみんなが集まって、同じ話を聞くということ、そしてそれを”継続”することなんですね。もうそれだけで充分、どうせみんなは熱心に話を聞こうとしているわけではないですし。まーでも、何か話すからには、せめて、みんなが気持ちよく一日のスタートが切れるような話をしたいもんです。

 

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勝東劣西の法則

 風水には「勝東劣西」という方位の法則があるのをご存知ですか。たとえば、実力が拮抗した軍勢が東西に分かれて戦う場合、東のほうが勝利しやすいといいます。そういえば、関が原の戦いも、徳川家康率いる東軍の勝利でしたね。さらに古代最大の争乱、壬申の乱でも東国から兵を集めた大海人皇子(のちの天武天皇)が大友皇子に勝利しましたし、源平合戦でも東から平氏を追い詰めた源氏が勝ちました。

 東が優勢だというのは、何も戦に限りません。風水の原則にしたがって造営された平安京は、朱雀大路を中心に左京と右京に分けられましたが、東側の左京の方は繁栄を極めたのに、西の右京はしだいにすたれていきました。

 この「勝東劣西の法則」は、当然ながらビジネスの場にも応用できます。難しい交渉や商談のときには、相手より東の位置に座るのがよいとされます。ただし、どう考えても成功の見込みがなかったり、明らかな準備不足の場合までもフォローしてくれると思ったら間違いで、準備万端で臨み、あともう少しの勢いがほしい、ほんのわずかな差で成否が決するというような場合に威力を発揮してくれるものですって。それはまあ、そうしたもんでしょうね。

 さらに効果を高める方法がもう一つ。まずは、相手の右目を見つめながら話す。これだけで、相手があなたの意見を受け入れてくれる確率が高まるそうです。風水学では「気」の情報は右目から入って脳の深部に到達すると考えるので、こちらの意図が、相手の右目からダイレクトに相手の心に響くというわけです。ぜひとも実践なさってみてください。

 

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インドのことわざから

  • 5年間は王子のように、10年間は奴隷のように、そのあとは友のように、息子を扱え。
  • 塩の値打ちは切らした時に、父親のありがたみは亡くした後で分かる。
  • 手元にない金貨より、手元にある銀貨。
  • 物乞いをするときでも、衣服はいつも整えよ。
  • 夢の意味、秋雲の影響、女の考えと王様の本性は、誰にもわからぬ。
  • 刀は、自らを斬ることはできない。
  • 神様と母親のことは、いつもうまく言えない。
  • ベッドが壊れても、地面に寝ることができる。
  • 鍋が沸騰するのは止められるが、村じゅうの陰口は止められない。
  • 富は快楽を害し、気苦労の種となる。
  • 騙す者は罪深いが、騙される者も罪が深い。
  • 鶏が鳴かなくても、朝は来る。
  • 美しい女は世間のもので、醜い女は君だけのもの。
  • 金や銀は火の中でこそ試される。
  • 酒屋で水を飲んでも、世間は酒とみるだろう。
  • 人は、自分が考えている通りの人間になる。
  • 疲れ果てた水牛は虎を恐れない。
  • バラモン教の僧侶の手と象の鼻は休息を知らない。
  • 怒りに怒りで報いない者は、自分自身と相手を救う。
  • 畏敬の念を起こさせるもには何であれ、嫉妬がつきまとうのが常である。
  • 信じれば神、信じなければ石。
  • 汝が生まれたときは汝が泣き、汝の周囲の人々が喜び、汝がこの世を去る時は汝の周囲の人々が泣き、汝のみ微笑むようにすべし。
  • どれほどうねりくねろうと、川は結局海に流れ込む。
  • 家庭の平和を保ちたいのなら、妻の言うことを聞くことだ。
  • 心が向かえば言葉も向かい、行為も向かう。
  • 月明かりは刻み、日光は描写する。
  • 人は最初の30年で習慣をつくる。残りの30年は習慣が人をつくる。
  • 手に入れていないものは適切に手に入れるべし。手に入れたものは努力して守るべし。守ったものは常に増やすべし。増やしたものは価値ある人に与えるべし。

 

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武田勝頼の残念

 武田勝頼は、1546年、甲斐の守護大名武田信玄の四男として生まれました。母は信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘で、「諏訪御料人」と呼ばれていた女性です。当初、勝頼は、母の実家である諏訪氏を継いだため「諏訪四郎勝頼」、また信濃の伊那郡代高遠城城主であったため「伊那四郎勝頼」とも名乗っていました。勝頼の「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来するとされますが、武田氏の通字の「信」はつけられず、諏訪氏の通字の「頼」がつけられていることから、勝頼が置かれた立場が伺えます。

 ところが、勝頼が20歳になった1565年、思いも寄らない転機が訪れます。信玄の長男で、武田氏の家督を継ぐはずだった兄の義信が、信玄に対し謀反を企てたために幽閉され廃嫡されてしまったのです。さらに義信の下には次男の龍宝(りゅうほう)、三男の信之の2人の弟がいましたが、龍宝は盲目だったために出家しており、信之は10歳で早世していました。そのため、四男の勝頼が急きょ家督相続の候補となり、武田氏の本拠の躑躅ケ崎(つつじがさき)館に呼び戻されました。そして、1573年4月に信玄が亡くなると、信玄の遺言により勝頼の嫡男・信勝を次の当主とし、勝頼は「陣代」という後見人の立場となりました。実質上の当主です。

 武将としての勝頼の力量はというと、信玄の在世中からいくつかの城攻めを任され、今川方だった駿河の蒲原城遠江の二俣城などを落とし、信玄が亡くなった翌年には、信玄が落とせなかった遠江高天神城を落とすことに成功しています。実は、勝頼の代になってからの領国は、名将といわれた父の時代よりうんと大きくなったのです。長年のライバルとして戦ってきた織田信長も後に、勝頼を「日本に隠れなき弓取」と評しています。

 しかしながら、名門で戦国最強といわれていた武田氏を滅亡に追いやってしまったのも勝頼であり、そのため、武将としての一般的な評価は決して高くありません。大河ドラマなどでも何となく影の薄い存在として登場します。やはり終わりが悪ければそれまでのことが全て肯定されなくなってしまうのでしょうか。

 連戦連勝を重ねながら途中からうまくいかなくなった原因は、特に父が落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰となり、それが仇になったとも言われます。その後の、三河長篠城の奪回をめざした織田信長徳川家康連合軍との「長篠の戦い」では、戦前に宿老たちから強い慎重論があったといいます。しかし、それを無理に押し切っての大敗北。 多くの重臣を失った武田氏はそれから衰退の一途をたどり、1582年3月の「天目山の戦い」で織田軍に敗れ、とうとう武田氏は滅亡したのです。勝頼の享年は37歳でした。 

 信玄は生前、孫子の兵法にのっとり、戦の勝ち方にも上中下があると述べていました。すなわち「戦いは五分の勝ちを持って上となし、七分を中とし、十を下とす」というのです。五分の勝利であれば、緊張感も残り次への発奮につながる。しかし、七分だと油断が生じやすく、完全勝利では、おごりが生じ、次の戦で大敗してしまう下地になってしまう、と。「腹八分目」という言葉もありますが、非常に重要な眼目を含んだ言葉であると思います。勝頼は、そのあたりの自制力や深謀遠慮が足らなかったのかなと、残念に思います。

 

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新装版 武田勝頼(一)陽の巻 (講談社文庫)

新装版 武田勝頼(一)陽の巻 (講談社文庫)

  • 作者:新田 次郎
  • 発売日: 2009/09/15
  • メディア: 文庫
 

麻生さんが語る「日本が世界に誇れること」~その2

麻生さんが語る「日本が世界に誇れること」――


 外務大臣やった時だったかな、インドに行って、ニューデリーの地下鉄を見学したことがある。その時、向こうの地下鉄公団総裁が案内してくれて、ニューデリーではこの地下鉄を”BEST AMBASSADOR”(最高の大使)と呼ぶんだと言う。「どうして?」と聞いたら、この人は地下鉄をつくった時の技術屋の責任者のヘッドだったという。彼が言うには、

 「第1回目の現場説明会が8時半集合だというので、8時半の2、3分前に行ったら、日本から来た人は全員が作業服、ヘルメット姿で外に整列していた。俺たちは全員が揃うのに8時40分までかかった。全員揃ったと報告したら、日本人の人から、お前その格好で作業するつもりか、と。8時半に集合といったら8時半から仕事を開始するということだ。8時半までにきちんと作業できる格好で明日から来い、と言われて、次の日8時15分に行ったら、ほとんどの日本人は既に着替えを終わっていて、翌々日は8時に行った。そしたら日本人は着替えている最中だった」

 それから、「工事が終わるまでの間に日本人から習った新しい日本語で記憶に残るのは1つ」というので「何だ?」と聞いたら、「納期」だという。

 「徹底して納期を守れと言われた。今日終わるはずの工程が明日までかかるというと、お前、約束が今日になっているだろうが。納期は今日ということに決まっているんだから、やれ、と。それで終わるまでじっと待っている、手伝ったりしながら。とにかくきっちり時間通りにやる。それが『やる』と約束した俺たち作業現場の誇りだ、と。仕事にプライドを持て。自分で約束したんだから、約束は守れ、と。労働に対する美学、哲学というものを徹底して俺たちは教えられた」と。

 結果、今日(こんにち)インド中にいろいろな公共の乗り物が走っているが、すべての公共の乗り物の中で、ほぼ時間通りに動いている唯一の乗り物がこの地下鉄なんだ。従って、俺たちは感謝の意味をこめて”BEST AMBASSADOR”と呼ぶんだ、と。

 とてもいい話だと思ったけれど、日本からODAなんかで海外に行っている人たちの中には、こういう話っていっぱいある。

 

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