凡人は歴史に学ぶ

歴史を学ぶって、まさに人間学なんですよね。

角さんのエピソード

 昭和38年、田中角栄が池田内閣の大蔵大臣に就任してしばらく経ったころ、すでに政界を引退していた吉田茂から、「来い」と声がかかりました。

 雑談のなか、「書」に趣味を持つ吉田の前で、田中は「自分のところには、良寛和尚の書があります」と切り出しました。すると、吉田は、

「そりゃあ、君、偽物だ」

と言います。田中はむきになって、

「正真正銘の本物です」

と言いましたが、吉田は、

「そうか。しかし、君が持っていても偽物に思われるが、ボクが持っていると本物になる」

と切り返してきました。結局、田中の持っていた良寛和尚の書は、吉田に召し上げられてしまいました。

 

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田中角栄 100の言葉 ~日本人に贈る人生と仕事の心得

田中角栄 100の言葉 ~日本人に贈る人生と仕事の心得

 

一般常識の問題集

諸外国の信用を得た明治政府

谷沢永一さんの著書から――

 

 明治維新直後に元勲たちが諸外国に対してなしたことのうち、日本のその後のイメージをたいへんよくしたのは、徳川幕府が各国から借りていた金を、維新政府の手によって懸命になって返したことです。明治維新によって政権交代したが、前政権の徳川幕府が国際的に各国から借りた金を、明治政府は脂汗流しながら全額返したのです。一銭たりとも踏み倒さなかった。

 明治維新の前、倒れる幕府が諸外国からたくさんの借款をしました。・・・幕府にもいろいろないいところがありましたが、困ることの一つは、金を借りることに対して鈍感であったことです。人間社会で、何が難しいかと言って、金を借りることほど難しいことはありません。金の借り方ということによって、その人物の人格が問題になるわけです。

 ・・・ふつう、革命がおこって前の政権が倒れると、新しい政権は前の政権の借金を棒引きにするのが常識なのです。例えばレーニンは、ニコライ帝の借金を全部棒引きし、元々、そんなものはなかったという態度をとりました。ところが、日本だけは借金をせっせと返したわけです。これは明治政府がやった偉大なことの一つです。このことが、日露戦争の勝利につながるのです。

 日露戦争は、日英同盟によって勝てたのですが、同盟が可能だったのは、イギリスが日本を信用したからです。また高橋是清がロンドンへ外債募集に行き、外債を売りつけることに成功します。進んで引き受けてくれたのがユダヤ人だったからということもありますが、当時、ヨーロッパ社会、金融会社で、「ジャパンは信用できる」という公認の評価を確立できたのは、明治政府の偉大なる功績です。

 

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日本史人物集

天智天皇の決意

 7世紀の朝鮮半島は、高句麗新羅百済の三国に分かれていました。煬帝は何とか朝鮮半島を傘下に治めようと、高句麗に遠征しましたが失敗、先代の文帝のときも含めると合計4度も遠征したため、国力は疲弊し、それが原因で隋は滅びてしまいました。

 隋を倒したは、高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅と結託して百済に攻め入り、これを滅ぼしました。その滅亡の日には、王城があった山の断崖から3000人の官女が白馬江に身を投じたといいます。そしていよいよ高句麗も滅ぼしてしまいます。

 これを見た、わが天智天皇(このときは中大兄皇子)は、祖国回復を求める百済の残党と行動を共にし、唐に対抗することを決意しました。日本と百済が友好関係にあったこともありますが、何より日本はずっと新羅を憎んでいたからです。かつて朝鮮半島にあった日本の領土、「内宮家(うちつみやけ)」と呼ばれていた「任那(みまな)」を新羅に奪われてしまったのです。

 あの聖徳太子新羅征討を企てたほど、歴代天皇にとって任那奪還は悲願でした。その新羅が今度は友好国の百済を、唐と組んで滅ぼしてしまったのです。天智天皇の怒りは心頭に発しました。それからもう一つ、いずれ新羅も唐に滅ぼされ、次は日本の番だという思いもあったでしょう。

 天智天皇は大規模な援軍を送り込み、朝鮮半島白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦いました。結果は大惨敗。戦いの後、天智天皇は唐の侵略に恐れおののきました。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築きました。しかし、けっきょく唐は攻めてきませんでした。なぜでしょうか。

 それは新羅が唐に抵抗し、がんばったからです。けっきょく唐の保護国のようになってしまいましたが、あれほど憎かった新羅が結果的には唐の防波堤になってくれたのです。

 

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絵島事件

 大奥の女性たちは、めったに江戸城の外に出ることはありませんでした。大奥に入って3年経過すれば6日間、6年目で12日間、9年目で16日間という外出許可の規定がある他は、正室や側室の代理として寺の参詣をする程度でした。ですから、めったにない外出の日を楽しみにしないはずがありません。当時は、外出すると、そのついでにどこかに立ち寄ることが流行っていたようです。

 ところが、そんな外出が、とんだ事件に発展することになります。1714年2月のこと。大奥の年寄である絵島が、供を従えて外出し、先代将軍・家宣の墓がある増上寺を参詣しました。絵島というのは、時の将軍・家継の生母で、家宣の側室だった月光院の部下です。このときも、月光院の代理として外出したのでした。

 そして、絵島らはその後に、懇意にしていた呉服商の誘いで山村座という芝居小屋に立ち寄りました。ハンサムな生島新五郎という役者の恋愛もので、浮かれて見ていたのでしょう。おまけに、芝居の後、座長の山村長太夫の家に入り込み、生島新五郎なども交えて酒を飲み、江戸城の閉門時刻の午後6時に遅れてしまったのです。

 事件というのは、たったこれだけのことでした。ところが、これが江戸城中に知れ渡り、大きく取り沙汰されることになりました、評定所による判決の結果、絵島は遠島、絵島の兄は死罪、弟は追放、山村長太夫生島新五郎も、芝居の作者も遠島、そのほか、総勢1500人が裁きを受けることになったのです。

 絵島が驚いたのは言うまでもありません。たかだか門限に遅れた程度なのに、刑が重過ぎます。何とか頼み込んで減刑してもらいましたが、それでも信州の高遠に幽閉され、61歳で亡くなるまで、そこから一歩も出られずに過ごしたといいます。

 なぜこのような極端な裁判が行なわれたのでしょうか。実は、この成り行きの裏には、幕府全体を二分した勢力争いがあったといわれます。当時、大奥は大きく2派に分かれていました。家宣の側室で将軍家継の生母である月光院派と、家宣の正室天英院派。また、家臣団の間にも対立がありました。間部詮房新井白石のような、家宣によって取り立てられた新参派と、幕府創立以来、譜代の家臣である古参派です。

 そしてこの対立は、将軍家継を擁する月光院派と新参派が優勢でした。そんな状態を、皇室出身である天英院や譜代の家臣らが面白かろうはずがありません。そこで両者は結託することになります。そんな折に、絵島のミスが起こったのです。巻き返しのチャンスをねらっていた彼らは、絵島のミスを徹底的に叩き、一挙に月光院派の勢力をおさえようとしたのです。絵島事件の一連の裁判を担当したのは、目付の稲生次郎左衛門正武でしたが、その裏で操っていたのは、古参派大老井伊直該でした。この一件のあと、稲生は勘定奉行、そして江戸町奉行へと出世していきます。

 一方、権勢を誇っていた月光院・新参派は、その力を急速に失うことになります。間部詮房新井白石らも、これをきっかけに徐々に失脚していきました。たかが遅刻で、幕府の勢力が大きく変わったのです。

 

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大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

『解体新書』

 江戸時代の人々に恐れられていた病気は、結核、痘瘡、そして梅毒でした。当時はいずれも命に関わる病気とされ、とくに梅毒は、コロンブス一行が新大陸からヨーロッパに持ち帰り、あれよあれよという間に世界中に広がっていきました。日本にも16世紀後半、ポルトガル人が来日して以降、西洋人によってもたらされたとみられます。

 小浜藩福井県)の藩医だった杉田玄白は、オランダ医学を学び、梅毒を専門としていました。その玄白が、刑場で死刑囚の解剖を見学する機会を得、古来伝えられてきた五臓六腑と、実際の人間の内臓とは大きく異なっていることに驚きました。また一方で、所持していたオランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』が、じつに正確に記されていることに感心し、同書の翻訳を決意したのです。

 玄白は、かねてオランダ書翻訳の志を抱いていた前野良沢に協力を求め、さっそく良沢邸に集まり、中川淳庵も加えて翻訳を開始しました。しかし、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も、翻訳を行うには力不足でした。オランダ語を通訳できる人間は長崎にいるため質問もできず、当然ながら辞書もありませんでした。そこで、暗号解読ともいえる方法により、翻訳作業を進めていきました。この苦労の様子は、玄白が後に著した『蘭学事始』に記されています。

 3年後の1774年にようやく翻訳を終え、『解体新書』は刊行されました。本文4巻、付図1巻からなり、内容は漢文で書かれています。ただし、翻訳作業の中心的役割を担った前野良沢の名前が著者名にはありません。その理由は、自分の名前を上げるために勉学するのではないと誓っていたから、とか、訳文が不完全だったので自分の名前を出すのを潔しとしなかったから、とかいわれています。

 『解体新書』は一般には『ターヘル・アナトミア』の翻訳書といわれていますが、そのほか多くの海外の解体書が参考にされており、和漢の説も引用されています。単なる直訳ではなく、彼らの手によって再構成された書物であるといえます。

 

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新装版 解体新書 (講談社学術文庫)

新装版 解体新書 (講談社学術文庫)

 

がんばった紀氏

 紀氏はもともと紀州の紀ノ川沿いに勢力をもっていた豪族でした。早くから武門の家柄として大和朝廷と結びつき、中央貴族として活躍していました。藤原京平城京には紀寺という氏寺も残しています。そして、奈良時代の末、紀氏を母とする光仁天皇が即位するころ、紀氏の勢力は最盛期を迎えました。

 ところが、9世紀半ば、藤原氏とのあいだに争いが起きます。文徳天皇の皇太子の座をめぐる争いです。文徳天皇が即位したとき、天皇には4人の皇子がいました。第一皇子の惟喬(これたか)親王の母は紀氏の出身であり、しかも天皇最愛の皇子だったことから、紀氏は惟喬親王が皇太子となるのを大いに期待しました。

 しかし、文徳天皇は生まれて間もない第四皇子・惟仁(これひと)親王を皇太子に決めてしまったのです。惟仁親王の母は藤原良房の娘だったことから、政権独占をねらう良房が文徳天皇に強い圧力をかけたのでした。良房といえば、後に人臣で初めて摂政になった人物です。

 惟仁親王清和天皇として即位して後は、惟喬親王の伯父だった紀有常は22年間も昇進できませんでした。さらに866年に起きた応天門炎上事件では、藤原氏のライバルの貴族たちが犯人として捕えられ、紀氏の有力者も連座させられました。これによって紀氏は最後の力も失ってしまいます。

 中央政界での出世の望みを絶たれた紀氏は「文学」に生きる道を求めました。905年に出来上がった日本最初の勅撰集『古今和歌集』の選者には、紀貫之紀友則が名を連ねています。また撰集された歌の2割が紀氏一門によるものでした。転んでもただでは起きなかった、そんな紀氏のがんばりではないでしょうか。

 

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新版 古今和歌集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 古今和歌集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

松平定信の野望

 松平定信は、8代将軍吉宗の次男、田安宗武の7男で、吉宗の孫にあたります。田安宗武には7人の男子が生まれましたが5人は早世し、5男の治察と7男の定信だけが残りました。幼少期から聡明だった定信に対し、治察は凡庸で病弱でした。結局、治察が田安家を継ぎましたが子が生まれなかったため、定信が養子となる予定でした。

 ところが、定信は、幕府の命令で奥州白河藩松平定邦の養子となりました。これは実は老中田沼意次による策謀だったとされます。意次は、定信が田安家を継げば、場合によっては将軍になるかもしれないと危惧したのです。10代将軍家治には、子がありませんでした。家治が没した場合、将軍は田安家、一橋家、清水家の御三卿から選出されることになります。かねて自分に対し批判的であり賢明の噂が高い定信に将軍になられたりしては困ると考え、いちはやく遠ざけたというのです。

 白河藩主となった定信は、善政をしき名君との評判を高めました。しかし、定信は10歳あまりの頃から、日本はもとより唐土にもひびき渡るほど名声を高めたいと考えていたといわれ、きわめて強い功名心を持っていました。一大名の身分には飽き足らず、やがて譜代の小大名を取り込み、反田沼派を形成していきます。

 しかし、容易に田沼打倒の目的は果たせそうもなく、ついに城中で田沼を刺殺しようと決心しました。しかし、母の宝蓮院に戒められ、何より幕府の有力な地位について、幕政改革を実現しようと考え直しました。それからは、心の底から憎み軽蔑してた意次に賄賂を贈り続け、溜間詰(たまりのまづめ)に昇格してもらいました。溜間詰というのは、譜代の有力大名や徳川一門が詰めるところです。定信はここで有力大名と知り合い、いろいろと論じ合う機会を得ました。

 ところが、意次に対しクーデターを起こしたのは、将軍家治が死んで新将軍となった家斉の父一橋治斉でした。治斉は御三家を味方にして、意次を幕閣から駆逐しました。そして、治斉は、時局収拾の担当者として定信を推薦しました。老中となり、ついでその首座となったのは、定信30歳の時でした。

 

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